「利き手はどっち?」その1
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実は筆者は左利きだった。
…今の利き手は謎である。あるものは左手で使うし、あるものは右手で使う。はっきり言ってちゃんぽん状態である。
どうも幼少の頃は筆者は完全な左利きであったらしい。筆者が幼稚園に入園前のことである。筆者に平仮名を教えていた母親は驚愕した。筆者は左手に鉛筆を持ち、全ての平仮名を左右逆に書き始めたからだ。
考えてみれば当然である。大体文字というものは右手で書きやすいようになっているのだ。文章を左から右へ書くのも右利きにとって便利だからに過ぎない。というわけで、左手で平仮名を書くには左右逆に書いた方が書きやすいのである。
ともかく、母親は焦った。考えてみれば、母親自身元々左利きで似たような経験を持っているのであるが、自身と同じように筆者を右利きに矯正したのである。
というわけで、物心ついた時から覚えたものは全て右手で行なうように矯正されてしまった。野球などもそうだ。左利きのままならイチロー並みの才能を発揮していたかもしれない筆者だが、今ではただの名もない一チューリッヒ市民に成り下がってしまった。というわけで、殆ど右利きと言ってもいい筆者だが、変なところに左利きの痕跡が残っている。
最もメジャーなものは「箸」だ。筆者はいまだに箸は左手で使う。しかしテーブルマナーは随分後で覚えたので、ナイフフォークは右利き仕様である。
実はこれが原因で、筆者はしばらく左右がどちらか分からなかった。小学校では、「箸や鉛筆を持つ方が右手ですよ」という左利き蔑視の教育を受けた。これが完全な左利きなら逆に覚えれば済むだけの話であるが、筆者の場合は箸は左手、鉛筆は右手なのである。混乱するのは当然だ。おかげで東西南北の方を先に覚えた。いくら筆者が左利きの痕跡を残していようと、太陽の動く方向は変わりがないからである。筆者がようやく左右を理解できるようになったのは、「北を向いて東の方向が右」という筆者独自の理解法を会得してからである。
だいたい、左右の定義は教育関係者が考えているほど単純なものではない。左右とは哲学的問題ですらある。左右の定義の難しさは、「鏡に写すと何故左右が逆になるのか?」という問題を考えてみればわかる。この鏡問題についてはのちにでも詳しく書くとして、この問題に正確に答えられないのなら左右を教える資格はない、とすら筆者は考えている。左右を教えるより前に東西南北を教えるべきである。東西南北の定義の方がよほど簡単だからだ。
…話がそれた。
それ以外に左手で使うものとしては歯ブラシがあげられる。筆者は全く意識していなかったのであるが、小学校高学年のときにこの事実を思い知らされる事件があったのだ。
その事件とは「歯磨き体操」なる行事である。
この「歯磨き体操」、説明すると、正しい歯磨きの方法を教えるための行事である。全校生徒が歯ブラシ片手に校庭に集まる。朝礼台には保健所から派遣されたお姉さんがどでかい歯ブラシを持って磨き方を説明するのだ。皆さん御存知かどうか知らないが、歯ブラシには2種類の方向の持ち方がある。親指の腹を歯ブラシの背面に当てる方向と、側面に当てる方向である。保健所のお姉さんはこれらを「1の持ち方、2の持ち方」と称して、皆の前で「さあ、次は2の持ち方で右の奥歯を磨きましょう!」などと指導しているのである。
筆者はお姉さんの言われたとおりの持ち方で、お姉さんの言われた箇所(この頃には左右は理解できていた)を磨いたのだが、磨きにくくて仕方がない。…なんでや?と考えた筆者はようやくある事実に思い当たった。皆右手で歯ブラシを持っていたのに、筆者だけは左手で持っていたのだ。これだけ磨きにくいということは、いっそ逆にすればいいのではないか?と筆者はひとり考え、お姉さんの指示とは逆の持ち方で磨いてみた。すると非常に磨きやすい。以降は持ち方のみお姉さんの指示にことごとく逆らって体操を終えた。しかしなんという左利き蔑視の体操であろうか。いまだにこんな行事はどこかで行なわれているのか?
「中途半端な左利きの悲劇」はまだまだ終わらない。右利きの読者諸君も左利きの読者諸君も、両方の気持ちが理解できる筆者に温かいコメントをいただけると嬉しい。最近再び孤独感の増した筆者に温かい励ましをお待ちしている。